再び広島に滞在しております。
松風の稽古に没頭する幸せな毎日です。

年末の音楽稽古の帰路、新神戸で途中下車し、
松風ゆかりの地、須磨を散策しました。
一緒に舞台を創ってくださっている皆さまと共有するため、
取り急ぎではありますが写真を掲載いたします。


「松風村雨堂」は、平安時代の多井畑の村長の娘「もしほ」(松風)と「こふじ」(村雨)が
在原行平を慕い建てた庵の跡です。
月見山駅下車徒歩7分程。

08405764-F15F-4214-85B3-D3FACC21CB45お堂までの道は閑静な住宅街。海に程近い細い道、幼少期に住んでいた浜寺(大阪府堺市)を思い出しました。



0A04370C-F80D-4022-99F1-56879EA7699E車通りのある道に出ると案内がありました。



E5DD8D3A-9908-4C66-AA72-ACE54D917035松風村雨堂の入口に立つ石碑。横に和歌が彫られています。



9A2EE6BA-ED7A-4C0E-8DB7-4649BD2DD0E1中納言行平 立ち別れいなばの山の峰に生ふる 松としきかば今かへりこむ
現在の須磨離宮公園付近の「稲葉山(=月見山)」という説あり。



A1CF8F18-2F44-4C3C-9C6F-60F0646AC83C<松風村雨堂>(神戸市地域史跡)
 松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
 『平安時代前期(九世紀中頃)在原行平が、須磨の地で寂しく暮らしていた時、
潮汲みに通っていた多井畑の村長の娘である姉妹に出会った。
その時、松林を一陣の風が吹き抜け、娘たちの頬を通り過ぎ、にわか雨が黒髪にふりかかった。
そこで行平は娘達に「松風」「村雨」の名を与え、仕えさせた。 
 やがて許されて、行平は都に帰ることになり、小倉百人一首で有名な
   立ち別れいなばの山の峰に生ふる 
       松としきかば今かへりこむ
の歌を添え、姉妹への形見として、かたわらの松の木に烏帽子、狩衣を掛け遺し、
都に旅立った。
 姉妹は、行平の住居の傍らに庵を結び、観世音菩薩を信仰し行平の無事を祈っていたが、
後に多井畑へ帰りわびしく世を送った。』
 「古今和歌集」にある
  田むらの御時に、事にあたりてつのくにのすまといふ所にこもり侍りけるに、
  宮のうちに侍りける人につかはしける

  わくらばに問ふ人あらばすまのうらに もしほたれつつわぶとこたへよ

という歌から、行平が須磨にわび住まいをしたことは事実と思われます。
現在の観音堂は庵の跡ともいわれており、伝説にちなんで、稲葉町、衣掛町、松風町、村雨町、
行平町などの町名がつけられました。
  平成二十年三月
 神戸市教育委員会 須磨区役所 西須磨協議会 松風村雨堂保存会(説明板より)



ED882057-F058-490F-AD52-385E537345C4時の流れ方が異なっているような史跡内。



ACB79ABA-3F0E-41E8-BADD-020964EDC45F観音堂。



A3960699-FE7E-4366-A573-68BD388F942A供養塔。



09B076D5-666B-48F7-8BC4-20FAF587376A行平が手植えしたと言われる松。



AD76F770-A496-4191-8AFB-84F87DBECF7A烏帽子と狩衣を掛けた松。三代目。



0289062B-17C8-4D89-8FD1-168DA194DE78<謡曲「松風」と松風・村雨堂に磯馴松>
 謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、女心の一途な恋慕や懊悩の姿を幽玄の情趣で表現された叙情豊かな名曲である。
 須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、海士女 松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。乞うた宿の二人の乙女は「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風村雨の幽霊である」と告げ、形見の烏帽子、狩衣を着て物狂おしく舞い、妄執解脱の回向を請うと、二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。旧跡を訪うた旅僧の夢であった。
 行平の謫居跡に彼を慕う姉妹が結んだ庵の跡が「松風・村雨堂」と伝えられる。別れに臨み行平が手ずから植えた「磯馴松(いそなれまつ)」は堂の近くにあり、古株のみが残って昔を語っている。
  謡曲史跡保存会(説明札より)


立ち去り難いものがありましたが松風村雨堂をあとにし、
旧西國街道を須磨方面へ。

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03D16B07-E502-485F-B8A5-462913A12506菅公手植えの松。

A78C77C7-3E5E-4DDA-A084-EC3439D8C4C4途中、諏訪神社をお参りさせていただきました。
一説ではこの神社の「諏訪」が訛って「須磨」の地名がついたとも言われているそうです。

4E26F98F-845C-4099-B590-7E42EFFC2F32Zu Meer…



A7FA8C02-EE5D-4347-9419-20B83195E5A9 An der küste von SUMA.

対岸は淡路島北端。松帆の浦。

 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
      焼くやもしほの身もこがれつつ  権中納言定家(藤原定家)



21001CA0-2934-42E7-BFF2-2D459AFCBA1F須磨の浦。


10C68187-6912-4C2E-8B79-0CE9379A5759汐汲の合間に貝合わせなどしたかしら・・・
ひとつ、合わさったままの貝をみつけました。



608468A5-023A-4AA4-8D32-913742B587D0海岸の真後ろにうねり立つ松。



2F1A84F1-DCF2-4C29-B345-3A9CBD4978F7須磨駅前到着。日が傾いてきましたが、多井畑のお墓を訪ねてみることにしました。

バスで20分程。途中、バスのアナウンスに『松風』にちなんだ名称が出てきて
なんだか嬉しくなりました。

バス停を下車してから下り坂、登り坂・・日暮れと帰りのバスを気にしながら
小走りで多井畑に到着。

668443E1-1D1E-4F09-A9A6-B39E8945F876ここには義経腰掛の松。


7AB015D1-08F6-490D-97CF-A100A7629097お墓、ありました。小さな五輪塔がひっそりと。



3853DE3D-850D-4929-9043-54F7AB4C7037<村風・村雨の墓>
 この二基の五輪塔は、松風村雨の墓碑と伝えられています。
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め、多くの文学にとりいれられ
悲しい物語として有名で、次のように伝説で広く世に知られています。
  在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ
須磨の地に配流されて寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた
多井畑の村長の娘”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、
松風・村雨の名を与え寵愛した。三年の歳月がたち、許されて
京都に帰るとき行平は、小倉百人一首で有名な
『立ち別れいなばの山の峰に生ふる
        まつとし聞かば今かへり来む』
の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの
形見とした。二人の姉妹はたいそう悲しんで庵を建て観世音菩薩を祀り
行平の無事を祈っていたが、後、多井畑へ帰りわびしく世を去った。
現在須磨には松風町、村雨町、衣掛け町などの町名が残っている。
  令和元年六月吉日 正木勲(碑文より)


08CA794D-6DBC-4119-9A54-C21F77915D62側には落武者のお墓群がありました。
<落武者の墓>
源平一の谷の合戦(西暦一一八四年)に敗れ、この地で自害した
平家の落武者十三名の墓と今に言い伝えられています。(碑文より)

この近くには二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があるとのこと。
民家に侵入してしまっているのでは・・というような細い道をゆくと、ありました!

2820E5D0-50C5-4E61-82F2-F2F83D9CFB51Mein Spiegelbild…



980DD067-31B6-489A-8631-D3CCF3149DBC<鏡の井 由来>
仁和三年(886年)光孝天皇のいかりにふれて須磨の地に
配流された在原行平は多井畑の
村長の娘「もしほ」「こふじ」の姉妹が浜辺に汐汲に来たのにあい
「松風」「村雨」の名をあたえて寵愛した
この鏡の井は二人が姿を写した姿見の井といわれている



D1E90CD0-5443-4929-8A54-BAFBFB7CA5B6最後に多井畑厄除八幡宮をお参りさせていただきました。

松風村雨堂も、多井畑の墓碑、鏡の井も、訪れたときには不思議と人の気配すらなく、
静かな時間を共有することができました。
2月の公演に向けては勿論ですが、年の瀬に作品ゆかりの地をひとり気の赴くままに歩き、
清々しく穏やかな締めくくりとなりました。

2020.1.18 work

韓国のニュースサイトに札幌交響楽団「第九」公演の記事掲載されていると
マネージャーさんからお知らせいただきました。
http://www.liveen.co.kr/news/articleView.html?idxno=251847

そのように聴いてくださった方がいらしたこと、
隣国の記事であることにも心温まる思いです。
私にとりましても、最も心に残る第九でした。

尾高先生がリハーサルでお話くださった数々は、
今を生きる演奏家にとって確かな道しるべとなるものでした。
いただいたお言葉、演奏を続ける限り心に置き、
行く先の確認と励みにかえて、これからも淡々と練習を重ねたいと思います。

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